巻 頭 言

 

熊本大学総合情報処理センター長  園田 頼信

 

 

 マルチメディア、インターネット等の言葉、記事等が最近では目新しくなくなって来ている。最初は何を意味する、あるいは指向しようとしているのかがはっきりしなかったが、パソコンの普及やマスコミ等が大きく取り上げた結果、また利用技術の発展により、社会に広く浸透し、既に社会システムの中に組み込まれている。しかしながらインターネットが広く普及していくと、今まで見えなかった問題も明らかになってきた。

 本来研究者のためのメディアであったインターネットは、もともと営利を目的とする事業者はいなく、研究者が中心となりボランティアなどで事業者の役割を代行してきた。そのための開発と運用の資金は公共的な団体が支援していたため、課金のための集中的な管理システムも必要ではなかった。インターネット上のアプリケーションに関しても、「情報の共有」という考えのため使用権がフリーであるフリーソフトウェアが開発された。このようにインターネットが特定の少数者の間で、そしてこれらのメンバー間の合意で用いられていれば問題の発生も少なく、よく言われているように「性善説」に従ったものと思われる。以上のような状況下で自然発生的に成長してきたインターネットには、当然セキュリティについての枠組みも不備であり、また様々な価値観を持ったユーザが登場してきた。さらにインターネットにビジネスの概念が導入されるようになってからは、「市場競争」の理を唱える参加者が増大し現在に至っている。

インターネットが普及し、流通する情報が増加するにしたがって、日本(自国)では法律で禁止されているような情報や、社会的に不適当と思われる情報も増えている。ほぼ一年前になるが、神戸市須磨区の小学生殺害事件の被疑者に関する情報のインターネット上への掲示例がそれである。週刊誌によると15万件を越すアクセスがあったという。また聞くところによれば、我が国では少年法に抵触するということでプロバイダーのサーバ上からは削除はされたものの、アメリカのサーバには掲示されていたという。この例の他にも「犯罪」であると立証は困難(?)であるが、他人のプライバシーに関する情報を(不)特定多数の人に流す、あるいは誹謗・中傷したり、脅迫まがいの例もあると新聞等は報じている。

法律や慣行があればそれに従い、それらがなければ自分で決定しなければならない。国境がないボーダレスのインターネットの環境下で、様々な価値観を持った人々が共存し、情報を共有するためには、利用者各自の国(あるいは文化)を越えた判断に任せることになり、マナー等を含めた人々の「倫理感」がより一層重要となってきている。

筆者が籍を置く大学においても、数年前から学生(研究生も含む)および教職員にメール ID を配布し、キャンパスの各所に設置している端末から自由に学内・外ネットワークの利用できる環境が整えられた。また在学証明書等の各種証明書の発行、あるいは履修登録、成績閲覧等も端末から即座に処理できるようになり、インターネット等にこれまであまり関心を示さなかった学生にとっても身近なものとなっている。情報リテラシー教育の中心的な役割を担う総合情報処理センターは、学内だけでも1万人を越えるユーザを対象とし、各種サーバの維持・管理を遂行している。学生を含めたユーザが多くなるにしたがい価値観も多様化し、これまで予期しなかった問題点も発生するものと思われる。学内における(総合)情報処理センターの役割を考えると、「情報リテラシー教育」は言うまでもなく、「情報倫理教育」についても早急に全学的に取り組み、また(総合)情報処理センターが率先すべき重要な案件ではなかろうか。