特別講演

 

情報処理教育の課題と目標―メディア法研究者からの一試論

 

立山紘毅*

山口大学経済学部 憲法学・情報法学

 

はじめに――「発信する」という鍵

 今年626日、大学審議会は「21世紀の大学像と今後の改革方策について(中間まとめ)」を発表した。そのサブタイトルが謳う「競争的環境の中で個性が輝く大学」なる文言が、「大競争(メガ・コンペティション)時代」と同種のニュアンスをもつこと、すなわち、優勝劣敗・弱肉強食の原則にしたがって、一握りの「勝者」以外には、個性の基礎的要件である生存の余地さえ認めないことに対する違和感はひとまず措いておく。しかし、現代日本の高等教育が深い病理に蝕まれていることを、その文書において、随所で指摘されていること自体は率直に認めないわけにはいくまい。

 もっとも、こうした指摘は何も「中間まとめ」の専売特許ではない。たとえば、立花隆が、自身の経験に基づいて指摘する大学生の言語能力の低下などは、その典型的な一例であろう(立花隆「立花臨時講師が見た東大生―答案を採点して感想を一言『何じゃこれは?』」文藝春秋199012月)。その種の基本的な「読み書き」能力の低下は、ネットワークというコミュニケーションに参加する能力そのものの衰退をもたらすばかりか、誹謗中傷・名誉毀損といった紛争の遠因にもなりかねない。そこへもってきて、『インターネット社会論』〔岩波書店・1995年〕を著わした赤木昭夫が指摘するように、インターネットの普及と利用拡大が「文化、思想の問題であるのに、商売の取引をするときに速く、安くすむ」(世界19966月)ことに著しく傾斜し、さらには、新たな巨大市場を堀り当てようとしている著作権ビジネスのように、市民の「送り手の自由」どころか、ささやかな利便さえも顧みない趨勢さえ現実のものとなっている(その一例として、中古ゲーム・ソフトウェア流通の差し止めを主張する著作権者の動きがある。小倉秀夫「中古ソフトがなぜ悪い?」法学セミナー19988月参照)。

 しかし、その一方で、同じ立花隆が「現実の政治運動とは別に、サイバースペースの中でまったく新しい運動が立ちあがり、……展開される」(同『インターネットはグローバル・ブレイン』〔講談社・1997年〕249頁)ことに期待を寄せていることはどう理解したらいいのだろうか。おそらく、それを解く鍵は、彼自身が「調べて、書く、発信する」ゼミを指導していることにある(同・前掲書242頁)。「調べて、書く」ことの指導までは、「インターネット以前」にも一般的だった。そこに「発信する」要素が加わったとき、いったい何が起きるのだろうか。それを理解するためには、媒体としてのインターネットの特性を理解することが必要になる。

媒体としてのインターネットとその可能性

「情報化社会にいかに対応するか」というスローガンは至る所で唱えられているが、では改めて「情報化社会」とはどんな社会なのか、と問われると、その理解が案外食い違っていることに気づく。そもそも「情報化社会」論なる議論自体、60年代末に日本で生まれ、「多様な価値観を持つ専門家の間でコンセンサスを得るためには、むしろ定義にあいまいさを残した方がよいと考えられ」(D・ライアン(著)小松崎清介(監訳)『新情報化社会論』〔コンピュータ・エージ社〕6頁「訳者まえがき」)たものだ、というから話は面倒である。ただ、ごく漠然とした傾向でいえば、情報の流通が物やサービスの生産・流通と独立した地位を確立し、それを担うセクターが独立した部門として社会的に認知されるに至った時代ないし社会を「情報化時代」とか「情報化社会」と呼ぶ、とはいえそうである(拙著『現代メディア法研究』〔日本評論社・1996年〕159頁註(1)参照)。

 もっとも、たとえば『通信白書』各年次版には、情報流通の現状がまとめられているが、それを見ると、われわれの情報環境はマスコミに由来する情報が圧倒的な量を占めることが容易に見て取れる。してみると、われわれの生活の場から見た「情報化社会」とは、マスコミ由来の情報が氾濫する社会と言い換えることも、ある程度は可能である。そのような現象は、われわれの生活の基本的な物資や生活関係そのものが地球大に拡大していることからすれば、当然といえば当然であるし、それを非難の的とすることはあたらない。また、量的にマスコミ由来の情報が圧倒的に優越しているとしても、「コミュニケーションの二段階の流れ(two step flow of communication)」学説や「認知的不協和」理論といった、現代では古典的とされる学説においてさえも、情報が個人の行動に対して与える影響にはさまざまな媒介過程が介在することが指摘されていることを考えれば、ただちにマスコミによる人格支配を論ずるのは早計である、といわざるをえない。

 したがって、マスコミが主役を務める現代の情報環境の問題点は、マスコミによる人格支配よりもむしろ、情報流通の非対称性にある。それを理解するためには、情報に対する権利論に立ち返らなければならない。

 すなわち、「人間は、自己の尊厳・自己完結性(インテグリティ)を確保しながら、他者と共生しつづけるのであるが、そのさい自己を他者に対してどう表出するかという点に関し、自分が判断し決定するのでなければ、自己の尊厳を確保し自己を完結すること(自己を自己たらしめることは)はできない」(奥平康弘『憲法V』〔有斐閣・1993年〕107-8頁)。すなわち、自己を他者に対して表出するかしないか、どの他者に対して表出し、どの他者に対しては表出を拒むか、どの程度まで・どの時点で・どのような手段を用いて表出するか、それらを決定できるのは自己のみであって、その限界は他者の同種の自由のみである、というのが情報に対する権利の基本である。あるいは、別の言い方をすれば、ある時点において情報の送り手となるか受け手となるかは、個人の選択と決定に委ねられており、それを制約するのは他者の同種の自由のみである、ということになる。

 当然といえば当然の権利であるが、これが現代の情報環境の主役・マスコミには適用されない、というのが問題なのである。すなわち、マスコミにおいては、あらゆる個人に「送り手」となる抽象的可能性はあっても、現実にそれを行使できる保障はどこにもない。「送り手」たるか「受け手」たるかの選択と決定は、自己の意思ではなく、社会階層によって決定されているのである。なるほど、あらゆる市民は街頭で声を上げ、チラシを配付して、不特定多数の公衆に対して「送り手」たる可能性は存在する(もっとも、その自由さえ各種の法令によってがんじがらめに規制されているのが現実だが)。しかし、その種の手段は伝搬性において大きな制約がある。むしろ、伝搬性において限定されているからこそ、いわば「お目こぼし」的に自由がある、とさえいいうるのである。かつて、七三一部隊関連の写真誤用問題で攻撃を受けた森村誠一は、この国には政府と大資本が認める範囲にしか言論の自由は存在しないことが身にしみてわかった、と述べたことがあるが、それは彼個人の問題というよりも、広く国民全般にわたる問題であるとさえいいうるのである。それだけではない。マスコミにおいて「送り手」から「受け手」に至る情報の流れは圧倒的だが、逆の向きの流れはあるかなきかの細さにすぎない。このような非対称性は、そもそも「コミュニケーション」の名に値するかどうかさえ疑問である。

 インターネットの可能性は、そのような情報環境の非対称性を克服し、あらゆる人に「送り手」たる可能性を現実ならしめるところにこそ求められるべきである。以前、その意味について、筆者は次のように述べたことがある。「パーソナルなレベルで運用可能でありつつ、その影響力・伝達力において、マス・コミュニケーションに匹敵し、『受け手』との双方向性が確保されている点でそれを凌駕する」(村井純+ILC『インターネット法学案内』〔日本評論社・1998年〕38頁)――むろん、それを実現するためにはいくつかの条件が必要である。たとえば、そのような媒体を運用する能力と通信環境である。媒体の運用能力は、コンピュータの操作のスキルに強く依存するが、それは情報処理教育の中で幅広く受け入れられてきている。また、通信環境についていえば、このところの重点投資によって著しく改善された。しかし、それらは、たとえば、タイピングの巧拙の次元に還元されてはならないし、通信環境の整備にしても予算獲得の「口実」であっていいはずがないのは、この点からも明らかであろう。

 

留意すべきいくつかの論点

 メール・アドレスの全員配布に見られるように、学生に至るまで情報環境を整備することの意義と目標を設定し、実行した後に、しばしば問題となるのは、それらを悪用ないし誤用して弊害をもたらすことへの懸念である。インターネットのもつ特質からして、その情報伝達の範囲に制限はない。しかも、どのツールをとってみても、本質的に、伝達の範囲を定めるのは情報発信者に委ねられている。このようなところから、インターネットの場合、情報発信者が圧倒的に優位に立ち、受信者の権利利益が劣位に置かれがちである、との声も聞かれる。実際、インターネットのもつもう一つの特質は、従来のメディアがもっていたプライベートないしパーソナルな領域と、公的な(「公」なるものをどう定義するかは大問題だが、さしあたりこの問題には立ち入らない)領域との区分が不分明なことである。 すなわち、放送、新聞といったメディアの場合、多くの場合、それはア・プリオリに公的な外観を備えているばかりではなく、そこで「送り手」の一員となり、または情報を発信するためには、数々のチェック機構を通過する必要があった。もちろんそれは、いつでも誰でも「送り手」たる地位に立つことをはばむ役割を営む反面、職業的なトレーニングと経験を積んだ人々によるチェックは、情報の質に対する最低限の保障や、情報が公的な意味をもつという性格づけないし意味づけを、少なくとも暗黙のうちに保障するものであった。しかし、インターネットの場合、情報の性格づけや意味づけを行うのは、発信者または受信者個人であって、彼らは必ずしもその種のトレーニングも経験も積んでいるとはいえない。これが受信者の場合であれば、種々の情報を興味本位に組み合わせて面白がるレベルにとどまるから問題はまだしも小さい(それにしても、ひとりよがりの意味づけが人格の成長・発達に有益かという問題は見逃せない。単に「読む・見る」スキルを身につけさせる以上に、それをどう意味づけするのか、どう整理して自分の人生の目標に活かすのか、という教育が重要であろう。それなくして「すべての事柄に対するなにがしか」が欠け落ちたまま、「なにがしかの事柄に対するすべて」を際限なく追求すること、端的にいえば「オタク化」が人格にもたらす影響は決して小さいものではない。ネットワーク・アディクションなる現象はその最も病理的な一例であろう。ただし、そのような「オタク」化の危険が、ネットワーク規制の理由となるかの論調には警戒を要する。その一例として、西垣通「インターネットに潜む危険――これからの情報通信システムと社会の変化」月刊治安フォーラム19971月)。しかし、発信者の側がそのあたりの事情に無頓着なまま、公私不分明の情報を発信し続けると、問題は多様に展開する。

 それが現実に誹謗中傷や差別的表現といった問題に発展すると、たしかに深刻である。そうした被害者のケアは、心理的側面から法的側面に至るまで、多方面から配慮する必要がある。しかし、情報処理教育の課題と目標というテーマからここで注意しておくべきことは、それだけの意義と可能性を秘めた媒体には、そのシステムの特質からして一定のリスクが存在することをあらかじめ教育する必要がある、ということである。

「偏見は無知から生ずる」という心理学上の命題ではないが、学生たちが漠然と感ずる不安の中には、システムの特質について無知であることから生ずるものが少なくないように思われる。しばしばネットワークを騒がせる「偽ウィルス」騒動などはその典型であろう。プライバシー侵害の問題にしても、中にはメール・アドレスが配布されただけでプライバシー侵害の危険に暴露される、と感ずるような誤解も少なくないように思われる。それは漠然と世間に流れる「ハイテク信仰」の裏返しであろうが、そのような不安に対しては、危険の存在と防御するための知識の普及こそが先決であろう。実際、報告されているプライバシー侵害のケースにしても、管理者の不注意・怠慢といったケースを除けば、利用者の不注意・不用意な個人情報頒布が原因となっているのが大半である。

 しばしば、そうした被害に対する善意から情報発信に対する規制を唱える向きもあるが、システムの特質に対する無知や知識不足が一般的な状況から規制を唱え始めることには、重大な弊害が伴うことに注意しなければならない。これは国レベルの規制論議にも共通することであるが、規制の前提となる事実について不正確な認識しかないところでルール作りが行われ、それが規制立法の性質を帯びれば帯びるほど「悪法」の度合を高めていく。そこに、不安にあおられたパニック状況でもあると、後世に禍根を残すような失敗が積み重ねられることは「らい予防法」や「エイズ予防法」が示すとおりである。ましてそこに、邪悪な意図が介在したときの状況は想像を絶する。そのような状況に陥らないように正しい認識を求めていくこと、かりにそのような問題状況が生じたときに、勇気をもって誤解を説くために正確な事実を伝えていくこと、それは専門家たちに課せられた行為規範というべきであろう(このあたりの事情について、拙稿「市民の規範とプロフェッショナルの規範との間で」電子情報通信学会技術報(信学技報)FACE98-4(19985)参照)。

 

おわりに

「読み書き算盤」といえば、教育の基礎的な要件を指す言葉である。昨今、いささか揶揄的にこれをもじって「読み書きパソコン」という人も多い。その当否はさておくとして、立花隆が「読み書き」の言葉にかえて「調べて、書く」と称しているのは、与えられた素材を受動的に「読む」のではなく、問題意識に沿って主体的に「読む」ことを含意してのことではなかろうかと思われる。もし、それが「書い」て教師が評価するところでプロセスを完結するならば、読書感想文と大差はない。しかし、「発信する」というとき、そこで想定され、かつまた現実に利用しうる媒体はネットワークであるから、それは見知らぬ他者とのコミュニケーションのチャンスを広げるものであるばかりか、場合によっては厳しい批判をも覚悟しなければならない。してみると、問題意識から発信までのプロセスはそこで完結するのではなく、何度でも繰り返すプロセスの一つが行われたに過ぎないということであろう。

「読み書き」の場合であっても、「書く」という行為によって客観化された問題意識が徐々に精錬され、大きく変貌していくことはしばしば経験するところである。それが、可能性のレベルであるとはいえ、世界大の規模で自己の問題意識が試されるというのは、考えようによっては、まことに厳しい話である。しかも、ようやく「発信」までたどり着いた「若葉マーク」のネットワーカーが、いきなり運悪く、悪意のネットワーカーによって非難や罵倒といった、破壊的な扱いを受ける可能性も否定できない。そのような扱いを受けたときの当事者の困惑や憤激は想像するにあまりある。

 立花隆『インターネットはグローバル・ブレイン』や牧野二郎『市民力としてのインターネット』〔岩波書店・1998年〕が指摘するネットワークの可能性は、それに参加する者が信に堪える存在である、という前提の下において成り立つ。それは、「オープン」であることを謳いつつ、実は学術関係者だけのクローズドな存在であった、かつてのネットワークの下でのみ成り立つ牧歌的な見方にすぎない、という批判は当然考えられよう。そういう見方は、ネットワークへの権力的な規制を呼び出す立場と親和性を持ちやすい。しかし、そのような規制を論ずるとき、底流に、ネットワークに参加する者よりも権力者の方が信に堪える存在であり、ネットワーク参加者の相互対話によって混迷する状況を把握し、解決への処方箋を探り合うよりも、権力者によって一気に決着をつけようとする意識が横たわってはいないだろうか。

 有害情報であれ、誹謗中傷・差別的表現であれ、迷惑きわまりない存在ではある。それを規則で禁圧すれば、当座の状況を解決するのには間に合うことだろう。しかし、それと向き合い、いかに克服するかを論ずることもなければ、なぜそれらが困った存在なのかを論ずることもなくして、将来を主体的に担うべき人格を養成すべき高等教育の役割を果たしたことになるのだろうか。ネットワーク管理の都合上とかユーザーの保護とかいった美名の下に、一方的に厳格な規制を押しつけてみても、自分の人生に自分が責任を負い、自らの生きる社会を自ら律するという、民主主義社会を成り立たせる根本条件を内部から掘り崩すことにつながりかねないようにも思われるのである。